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大人の自由帳

日本在住の外国人が日本語で皮肉を言います。

論理性なんてサヨウナラ

カカロットよりもベジータに親近感を覚えるみなさん、こんにちは。

ベジータやサスケとなら長く深い付き合いができそうな僕です。

持ちつ持たれつで害がなくて、結局美人と結婚するクリリンみたいな奴が一番幸せなんでしょうね。

僕もああいうのがいいですが、見える見えるとい思っていても、結局見えないのは、昼間の星と人生くらいなものであります。

 

二番手としての承認欲求

僕には欠点がたくさんあってですね。

いつだって髪の毛はくるくるですし、大人なのに髭は全然生えて来ませんし、自分に優しくなるような投資が苦手で、自分を守るために必要以上に他人を攻撃したりします。

欠点だという認識はしているので治したいとも思うのですが、自己への投資がどうも苦手で、例えばマッサージって気持ちいんだろうなと思っていても、未だに行ったこともありませんし、温泉なんてもってのほか。

人生に付加価値を与えるなんてのは、中々簡単なことではございません。

坂からコロコロ、どこまでも転がり落ちたいと思える日も少なくないのであります。

 

と、そんなストイックな心境で歩いていると前から女の人たちの声が聞こえます。

「あ〜、こんばんわ〜。○○ちゃんの母です〜」

 

この母のアイデンティティはどこにあるのでしょう。

○○の母という表現はどことなくずるい表現にも聞こえますが、同時に悲しさも含んでいると思います。

自分を承認してもらう前に、自分の関係者である○○を先に承認していないといけないので、少し壁は高いのですが、その壁を感じいるので、控えめに、「二位の承認」を求める行為と思いました。

 

日本語の中には、二番手としての承認欲求を求める行為・言動が非常に多いです。

友達の友達、○○の彼・彼女、○○の旦那・嫁

間男という言葉はあるのに間女という言葉はないので、日本語という言葉は実に社会的な言葉だと感じます。

「友達の友達」なんて言葉、他の国にあるんでしょうかね。

少なくとも、中国や韓国にはなさそうです。

 

アイデンティティはどこに宿る?

つまりですね。

人間の大前提として、「自分を一番愛す」ということがあるわけでして、だとすれば、日本語で表現できる二番手としての言葉には、アイデンティティが介在できる余地がないのです。

しかし、なぜかそんなアイデンティティのない言葉がとても多い。

慎ましく静かな民族性と思われたいこの言葉の話者達は、アイデンティティが全くないのか、実はものすごく孤独なのかどちらかということになります。

 

もちろん、アイデンティティがないわけはないので、後者に当たるのでしょう。

息苦しさは、ほどほどでいいんだけどなーと思う。今日は、空とてもが高く、青い1日です。