読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大人の自由帳

日本在住の外国人が日本語で皮肉を言います。

「意思」は一体誰のもの

聞きたくなきことこの上なし!と言いながら椅子毎ひっくり返り「この上なし!この上なし!」と叫びながら転げ回る人もいるかもしれませんが、少し自分語りさせてください。

 

僕はベンチャー企業で、マーケティング部署で主にWeb関連のマーケティングやらWebマスターをやっています。

Web関連の施策をプランニングし、プランをディレクション、時には開発やコーディングもしながらテストから実装。マーケティングフェーズを運用させて、終わったら効果検証。その他、諸々のフロントエンド側の管理やらコードレビューやら。

もちろん一人で全部をするのは不可能なのですが、それでも何よりも僕は発注というものがすごく苦手なので、自分でできることは自分でするようにします。

どうやったら自分でできるかを全力で考えるという燃費の悪いCPUのようなことを常にやっています。

 

しかし、こんなことは今の会社に入る前は全くやっておらず。

晩年寝太郎な鍛冶屋もびっくりの付け焼き刃ですべてここ一年で覚えながらやっていることなので、語れはすれど机上の空論。

子どもはコウノトリさんが運んでくるものではないものは頭でわかっていながら、プロレスごっこと表現してしまう童貞中学生のようなものであります。

バイブルはきっとヤングジャンプでしょう。

 

日本社会は大学時代にモラトリアムと涙のお別れを経験させる

なぜ、唐突に自分の仕事を紹介したかというと、コンセプトのないこのブログを作る過程で規則性に気がついたからなのです。
このブログを作るきっかけは、ゴールを「バズらせてTwitterのフォロワーを5倍にする」というところに定め、予算を決めてマーケティングプランを考えながら効果検証するということをして、仕事の勉強をしたかったからなのであります。

 

精神と時の部屋みたいなものですが、これがまたとてつもなく面白い。

なぜかと考えたらそれは間違いなく、「すべての物事に僕の意思があるから」につきます。

運動は暇人がするものと思っていますが、自らの意思で運動しているときは、やはりどうして面白いと感じるものです。こんなゴミクズな自分が時々無性に愛おしく感じてしまいます。すいません。

 

仕事はとてつもなく退屈ですし、ストレスを感じることは多いのですが、そこには意思がないから退屈なのだ。ということに気がついてしまったのです。皮肉にも、仕事の勉強をする工程の中で。

これこそ、モラトリアムがなかったからではないか。僕はそう思えてならないのです。

これは僕が悪いのではなく社会が悪い!

お前は一体なんなのだとお思いかもしれませんが、それは僕が一番自分に対して思っていることなので、いいから許していただきたい。

 

意思は一体誰のもの?

熱意があるのかと仕事で聞かれたら、YesでもありNoでもあるので、しばしパニックになってしまいます。

お金をもらい生活することに熱意は注げるのですが、仕事として他人の意思をあたかも自分の意思のように捉えることに、本当の自分の熱意は注げないからです。

 

マーケティングという仕事に携わっていると、プレイヤーという人種よりも、プランナーというタイプの人間がはるかに多いことに気がつきます。

作業のことはよくわからないが、口と金を動かして、発注が得意。会社や他人のお金を使うということに節操がないとすら思えることもあるのですが、結局プランは形にされるので、目に見える被害者はそんなにいないというパターンです。

なぜお金を使うのだろうと考えたら、それは価値をはかる指標がないまま仕事をし続けてきたので、「お金を払うことに価値を見出す」という状況が起きているからでした。

100万円払ったら、例えば、明朝体でページの真ん中に書かれた「おはよう」も、100万円するような気がするアレです。

日本では古くから、職人や宗教関係の職業で使われてきたものであります。

 

さて、そういう状況では、意思は一体どこに存在するのでしょうか。

 

正直、僕にはまだまだよくわからない世界ですが、もし僕の意思がどこかへ行ってしまうような状態になったら、、、

そうですね。

例えば、「冬はGLAYを聴きながらみんなでスノーボードに行こうぜ!行かないとか言ってる空気読まないやつはハブだ!」なんて言い出したら、

このブログを読んでいる数少ない大事な友人は、是非僕を強めにぶっていただきたい。

 

僕の意思はいつも真ん中に、図々しく居座っているのであります。